京大世界史入試問題 解体新書
〜2002(平成14)年 2月実施(全4問題 100点満点)〜
第4問(配点30点)
次の文章(A、B、C)の( )の中に適切な語句を入れ、下線部(1)〜(21)についての後の
設問に答えよ。解答はすべて所定の解答欄に記入せよ。
A ローマ帝政の初期にパレスチナで成立したキリスト教は、その後ローマ帝国に広がり、
さらに中世以後のヨーロッパにおける社会、政治、文化に大きな影響を与えた。(1)ローマ
帝国ではキリスト教はしばしば迫害をうけたが、4世紀初めの( a )帝による大迫害の後
は、キリスト教徒を敵としては帝国維持が困難であると考えたコンスタンティヌス帝によって
313年に公認され、また392年には国教とされた。こうして国家と結びつきながら杜会に定着
していったキリスト教は、帝政末期には都市を中心とした教会組織の形成と、(2)教父たちの
著作活動、そして(3)教義の統一のための公会議によって、その基礎を固めていった。民族
移動期の混乱を経て、新しい杜会と国家の形成が進められたフランク王国においても、教会、
とくに修道院は重要な役割を果たした。カール大帝(シャルルマーニュ)は(4)修道院文化が
発達していたイギリスなどから学僧を招き、カロリング=ルネサンスと呼ばれる文化的興隆
をもたらした。この時期においてより重要なのは、カールの皇帝戴冠によって、ローマ教皇と
皇帝の二つの普遍的権威を軸とする、西ヨーロッパ世界の基本秩序が成立したことである。
しかしこの聖・俗両権威の関係は、しばしば対立をも生じさせ、11世紀にはローマ=カトリック
教会の改革と世俗権力からの自立化をめざす教皇グレゴリウス7世は、聖職叙任権をめぐっ
て神聖ローマ皇帝( b )と対立した。この対立は1122年のヴォルムス協約によって一応終
結するが、その後ローマ教皇の権威は十字軍運動を通じて上昇し、(5)インノケンティウス3
世のころには全盛期を迎えた。しかし十字軍の終焉や各国王権の発展にともなって、教皇の
普遍的権威は下降を始める。(6)1303年のアナーニ事件と、これに続く「教皇のバビロン捕囚」、
そして40年にわたる教会分裂は、ローマ=カトリック教会に大きな動揺をもたらし、これに対す
る厳しい批判も現われた。15世紀には(7)ローマ=カトリック教会再建の試みもなされたが、
根本的な改革は実現されず、宗教改革時代を迎えることになる。
★ コメント
「段落も分けない長い文章だけど、テーマは明確なキリスト教史(15世紀まで)。
aのディオクレティアヌス帝とbのハインリヒ4世は、どちらもキリスト教サイドからは目立った
悪役。出題者の狙いは『キリスト教的善悪二元論』に気付かせること?」
問(1)その原因の一つに、皇帝のためのある儀礼をキリスト教徒が受容しなかったことが
考えられる。この儀礼とは何か。
★ コメント
「なんだか正解に誘導してくれるような文章になってない? 『皇帝のためのある儀礼』だ
なんて、もう答えの半分が書いてあるよ。
これを漢字が書けずにひらがな混じりで書いたら、採点者(誰? どんな人?)の心証は
悪いだろうね。崇拝なんて普段使わんけども、こういう言葉を漢字で正確に書けるように
することを、高校の授業でキチンと訴えなければ…と再確認してる自分がある」
(2)400年ころアウグスティヌスが著した自伝的著作は何か。
★ コメント
「『自伝的』という条件を無視して『神国論(神の国)』と誤答する人、多いんじゃない?
文化史で取り上げられる文学作品や学術・宗教書は、そのタイトルの意味と関連させて、
内容をある程度把握しておくことが大事。面倒がらずにやっておこう。ホントは読書できれ
ばいいんだけどね。まぁ、それはジャストミートする時が人生のどこかであるかもしれない
から、その時に貪り読みましょう。
あと、『告白』と書いたら、フランスの啓蒙思想家、ルソーの自伝文学作品になってしまう。
つまり、アウグスティヌスが自白した『スキャンダル』は、若い頃の放縦な生活とマニ教信仰。
ルソーのそれは、下宿の使用人女性と内縁関係になり5人の子どもをなしたが、全て養育
院に送った(ヴォルテールが匿名で『ルソーの捨て子事件』として批判)こと。
と、ここまでタイプしてきて、旺文社の世界史事典を読んでいたら、『告白』の項目で二人の
著書が説明されていた! よく考えたら、日本語に訳す際に区別するための『告白録』と
『告白』なのだ。ポリビオスが『ローマ史』でリヴィウスが『ローマ建国史』というのと同じ」
(3)ネストリウス派を異端とした5世紀の公会議の開催地はどこか。
★ コメント
「アリウス派ならニケーア公会議で異端。ネストリウス派ならエフェソス公会議で異端。どちら
も小アジアの地名。ただし、前者はまだ統一ローマ帝国の時代で325年(みんな見に来い
ニケーアへ)。後者はもう東ローマ帝国の時代で431年(子細相談エフェソスで)の出来事」
(4)その代表的人物を一人挙げよ。
★ コメント
「『一人挙げよ』って、一人しか教科書には出てこないぞ。七王国時代のイングランドのノーサ
ンブリア王国で神学を得意とした万能人がこのアルクィン」
(5)この教皇がイギリス王ジョンを破門した理由を簡潔に記せ。
★ コメント
「カンタベリという地名は、山川の世界史用語集では2回登場する。もちろんそれはヘンリ8世
によるカトリック教会からの離脱とイギリス国教会成立以前。
中世ではこのジョンの破門の原因。近世ではイギリス=ルネサンスを代表するチョーサーの
『カンタベリ物語』。どちらもイギリスにおけるカトリック教会の代表であった、カンタベリ大司教
やカンタベリ大聖堂に関連したもの」
(6)この時のフランス王は誰か。
★ コメント
「教皇ボニファティウス8世を問わずに、フランス王を答えさせるか。これは受験生がフィリップ
2世と誤答することを見込んだ問題。覚え方はこうだ。2世なら数字の3で第3回十字軍、4世
なら漢数字の三で三部会。なぜなら、三部会はこのアナーニ事件の前年である1302年に開
催され、その目的の一つに教皇との全面対決に際しての『国民的な』支持を得ることがあった
から」
(7)教会分裂を克服した15世紀初めの公会議の開催都市はどこか。
★ コメント
「日本語に翻訳すると『コンスタンティヌス帝の都市』となる都市で試験に出るものが二つ。一つ
はB.C.330年(耳をすませばコンスタンティノープル遷都)のローマの新しい都でノープルはラテ
ン語で『都市』の意味。そしてもう一つが4世紀に『小コンスタンティノープル』として建設された
このコンスタンツ。こっちは都市を省略」
B 近代初期のヨーロッパにおける芸術家や思想家の活動は、しばしば権力者の宮廷の世界と
密接に結びついていた、聖俗の有力者は、自らの威信を高めるために学芸を保護し、芸術家
や学者のパトロンとなった。たとえばルネサンス期のフィレンツェでは、(8)メディチ家がブルネ
レスキ、ボッティチェリ、ミケランジェロなどすぐれた建築家や画家に活動の場を提供し、また
(9)人文主義者によるギリシア古典の研究を援助した。イギリスでも、(10)16世紀後半から17
世紀初頭にかけて、エリザベス1世の宮廷を中心に、詩人エドモンド=スペンサーや劇作家
シェイクスピアらが活躍した。17・18世紀には、各国の王権は、絶対君主としての威光を示すた
めに宮廷に文化人を集め、その才能を積極的に活用した。(11)絵画の分野では、フランドル派
のルーベンスやファン=ダイク、 スペインのベラスケスらが宮廷画家として活躍した。
フランスでは、ルイ13世が登用した宰相( c )によってアカデミーが設立されフランス語の統
一がはかられた。つづく(12)ルイ14世はヴェルサイユ宮殿を造営し、「太陽王」としての絶対的
な権力を演出するために多くの画家や文筆家を動員した。コルネイユ、ラシーヌ、モリエールら
の劇作家が活躍し、フランスの古典主義文学が最盛期を迎えたのは、この時代である。
★ コメント
「『王以上に王権の絶対化に努めた男』で知られるリシュリュー。繰り返し映画化されてる、アレ
クサンドル=デュマ原作の『三銃士』では魅力的な敵役がこのリシュリュー」
18世紀にはいると、造形芸術の分野で、前の時代にくらべてより繊細で優美なロココ様式が
流行した。宮殿建築としては、(13)フリードリヒ2世がポツダムに建てた( d )宮殿やマリア=
テレジアが完成したウィーンのシェーンブルン宮殿が、その代表的な例である。理性を重視し、
非合理的な慣習を批判した啓蒙主義者たちも、宮廷の世界と無縁ではなかった。フリードリヒ2
世や(14)エカチェリーナ2世ら啓蒙専制君主たちは、ディドロやヴォルテールと交際し、新しい思
潮をとりこみながら国力の強化に努めた。19世紀に市民社会が成長し、新たな文化の担い手と
なるにつれて、宮廷に代わる新たな学問・芸術の場が形成されていった。しかし、宮廷文化のな
かで発達した礼儀作法は、宮廷の外で暮らす一般の人びとにも部分的に浸透し、市民社会の
マナーとなって受け継がれていくのである。
★ コメント
「ポツダムと言えば、このロココ式建築の代表でフリードリヒ大王によるサン=スーシ宮殿と、
1945年の連合国側が日本につきつけたポツダム宣言。首都のベルリン郊外の町に訪れる
機会があれば…」
問(8)この家の出身の教皇が、サン=ピエトロ大聖堂の改築費用をまかなうためにドイツで販
売を許可したものは何か。
★ コメント
「教皇の名前はレオ10世。当時のドイツが『ローマの牝牛』(政治的にバラバラだからローマ教
皇やカトリック教会から搾り取られる対象だった)と呼ばれていたことが、この贖宥状販売を背
景にしている。免罪符でもマルでしょう。贖宥状ってなかなか漢字覚えにくいもんね」
(9)人文主義者の活躍はアルプスの北でもみられた。ギリシア・ローマの古典や聖書を研究
する一方、聖職者の道徳的堕落をたくみに風刺して名声を博したロッテルダム出身の人文
主義者は誰か。
★ コメント
「ロッテルダム出身とあるが、それが今のオランダの都市名であることが分からないとヒントに
ならん。こういうのって一度ロッテルダムに行けば絶対頭に入るんだろうね。だってこのエラ
スムスって『ロッテルダムの顔』の一つでしょうし」
(10)この時代のイギリスでは、ルネサンス的な宮廷文化が開花する一方で、経済的な変化
にともなって職を失って移動する人びとも増大した。この問題に対処するために制定された
法の名を記せ。
★ コメント
「これは教科書レベルを逸脱? ただし『福祉の歴史』という意味では今日的な問題と言える
ので新課程の教科書での扱いが気になるところ。エリザベス1世の内政との関連で理解し
ている受験生も多いのでは?」
(11)これらの画家たちに共通する様式を何と呼ぶか。
★ コメント
「フランス語の baroque 。ルネサンス時代の均整のとれた静的様式に対して、動的で壮大、
細かい技巧の様式が特色。ポルトガル語 barroca 『いびつな真珠』から。イタリア語 barocco
『いびつな真珠』の意味はポルトガル語からの借用」
(12)財政面では、ルイ14世は財務長官コルベールを重用して、国力の強化をはかった。コル
ベールの行った政策の内容を簡潔に説明せよ。
★ コメント
「解答例は65字。東インド会社の再建という内容と、それが重商主義政策(コルベール主義と
も言われた! つまり典型的な政策だったということだ)の一つであったことを書けば3分の2
の得点。そして残り3分の1だけど、これは教科書を読み込んでないと出てこないのでは?
王立マニュファクチュアという言葉が定着していないと難しい」
(13)フリードリヒ2世は、マリア=テレジアによるハプスブルク家の家督継承に異議を唱え、
そのために戦争が起こった。この戦争の結果、フリードリヒ2世がハプスブルク家から獲得
した領土はどこか。
★ コメント
「1500年代の『男 vs 女』は、それぞれスペイン王フェリペ2世とイギリス女王エリザベス1世を
表し、勝ったのは女。
1700年代になると勝つのは男の方で、プロイセン王フリードリヒ2世がオーストリア大公マリア
=テレジアにオーストリア継承戦争と、その後のテレジアの復讐戦七年戦争で勝利。答えの
シュレジエン地方は今のポーランド西部に位置して、鉱産資源や工業で豊かな土地」
(14)西欧の先進的な文化に強い関心を示したエカチェリーナ2世は、他方でロシアの伝統的
な農奴制を強化した君主でもある。彼女の治世下に勃発し、鎮圧された大規模な農民反乱
の指導者は誰か。
★ コメント
「農奴制廃止を主張したため、ソ連時代には英雄扱いのプガチョフ。しかし、『ヴェルサイユの
ばら』で有名なマンガ家池田理代子氏が描けば…。詳しくは氏の『女帝エカテリーナ』を読
もう」
C 19世紀後半のロシアでは、(15)農奴解放が部分的に行われ、世紀末までに工業化もある
程度進行していたが、専制政治への不満が高まっていた。このような背景のもと、1905年に
は日露戦争を契機としてロシア第一次革命が勃発した。しかし、まもなく首相となった( e )
は、革命の結果開設された国会を抑制し、富農育成を目指す農業改革を行ったため、社会的
不満は解消されなかった。一方、19世紀を通じて、ロシアは南下政策を試みていたが、
イギリスやトルコの抵抗に遭い、数度の挫折を経験した。ロシアを取り巻くこのような国際情
勢は、世紀末から徐々に変化し始める。欧州の勢力均衡に腐心していたドイツの帝国宰相
ビスマルクが、海外への勢力拡大を企図する皇帝( f )と対立して辞職したことから、
(16)ドイツ・ロシア間の条約は更新されなかった。ドイツの勢力拡大を危惧するロシア、フラ
ンス、イギリスは徐々に外交的に接近し、1907年に(17)英露協商が締結されたことで三国
協商が成立する。この間、ロシア が南下政策をなお推進しようとし、ドイツ、オーストリアを
中心とする勢力とのバルカン半島を巡る緊張が高まったことが、第一次世界大戦勃発の背
景となった。
★ コメント
「( e )でロシア首相ストルイピンを答えさせ、( f )でドイツ皇帝ヴィルヘルム2世を答えさ
せる出題センス。ドイツ宰相ビスマルクとロシア皇帝ニコライ2世のセットとの対照は何を意
味する? 例えば、独裁的な行政のリーダーである前者二人が善悪取り混ぜた複雑な人
格であるのに対して、皇帝の後者二人が単純な時代遅れの人格であること?」
弱体化していたロシアの支配体制は、総力戦となった第一次世界大戦を生きぬくことがで
きなかった。1917年の三月革命によって帝政は倒れたが、革命で成立した臨時政府は戦争
を継続し、このことが十一月革命の大きな原因となった。十一月革命で成立したソヴィエト
政府は、ドイツとの単独講和を結んだ。ソヴィエト政府は、反革命勢力の抵抗と列強による
軍事干渉を耐えぬき、その後は国内経済の発展に努めた。1928年には(18)五カ年計画が
開始された。ソ連は徐々に(19)国際社会における孤立を脱しつつあったものの、世界経済
からの孤立が逆に幸いして(20)世界恐慌の悪影響を受けなかったため、数次の五カ年計
画のもとでソ連経済は発展した。国力を蓄えたソ連は、第二次世界大戦勃発とともに、周
辺諸国に武力で侵攻した。(21)ヴェルサイユ体制の下で新たに誕生していたヨーロッパの
独立国の多くが、ソ連とナチス=ドイツによって再び独立国家の地位を奪われることになっ
た。
問(15)1861年に農奴解放令を発した皇帝の名前を記せ。
★ コメント
「19世紀のロシア皇帝の名前は覚えやすい。すなわち、アレクサンドル1世(三帝会戦の
『一帝』、ウィーン会議)→ニコライ1世(デカブリストの乱鎮圧、クリミア戦争中に『憤死』?
)→アレクサンドル2世(農奴解放令、元ナロード=ニキに暗殺)→アレクサンドル3世(ほ
とんど出題されない)→ニコライ2世(日露戦争とロシア第一革命、第一次世界大戦と
ロシア革命)というように、アレクサンドル3世を除けば規則的に続いたから。まとめると
、アレ1→ニコ1→アレ2(アレ3は無視して)→ニコ2」
(16)この条約名を記せ。
★ コメント
「ロシアとオーストリアがバルカン半島での勢力争い(パン=スラヴ主義 vs パン=ゲルマ
ン主義)を背景に仲違いして、1881年以来の普・露・墺の新三帝同盟が87年に崩れた。
さすがのビスマルクも、これでロシアのフランスへの接近を防げないかと思いきや、この離
れ業! 再保障条約でも二重保障条約でもO.K.だけど、再保証条約とか二重保証条
約などと誤字はダメ。現代文の漢字の書き取りが苦手な人は注意。…っていうか、こういう
学びから正しい漢字が身に付くのかも…。丸暗記でない形で」
(17)この協定によって、イギリスとロシアは、ある国における、それぞれの勢力範囲の設定
に合意した。この国の名を記せ。
★ コメント
「正しくはペルシア。なんとなれば、イランの国号はペルシア最後の王朝であるパフレヴィー
朝(1925〜79年)で、1935年に制定されたから。イギリスにとっては『インドルート』(イラン
はインドの西隣)、ロシアにとっては『南下政策』(ロシアとイランは、国境を南北に接してい
る)の一環と理解せよ」
(18)第1次五カ年計画で重点的に推進された政策を簡潔に説明せよ。
★ コメント
「解答例は40字足らず。得点ポイントの根幹の部分は次の2点。(国民生活を無視した、つ
まり生活必需品の生産を軽視した)重工業優先政策と農業の集団化。それにコルホーズ
(集団農場。『コル』は英語のコーポ)・ソフホーズ(国営農場。『ソフ』は『ソヴィエト』の略語)
で字数を稼げばよい」
(19)ドイツは、1922年にソヴィエト政府とラパロ条約を締結し、列強の中でいちはやく革命
政府との外交関係を樹立した。この理由を簡潔に述べよ。
★ コメント
「解答例は50字余り。この理解しずらい外交が腑に落ちるには、河合塾講師青木氏の言う
次の解説が有効では? このドイツとソ連の提携は、『傷のなめ合い』。つまり、当時の両
国の状況は、ドイツは重過ぎる賠償金の負担に、ソ連は干渉戦争と内戦に苦しみ国際的
に孤立していたということ。よってこの論述問題のキーワードは『敗戦国』と『社会主義国』
と『国際的孤立』」
(20)世界恐慌の悪影響を緩和すべく、ドイツの賠償支払いの一時猶予を行ったアメリカ大
統領の名前を記せ。
★ コメント
「市場万能主義者にはこれが限界? 世界恐慌までの『栄光の20’s(ツゥエンティーズ)』を
象徴する共和党出身の大統領は、『ハードでクールでオーヴァー(おおげさ)』と順番に覚え
ればいい、ハーディング・クーリッジ・フーヴァーの3人で、市場懐疑主義のケインズ経済を
背景とした民主党のフランクリン=ローズヴェルトに選挙で敗れることになるフーヴァーのフ
ーヴァー=モラトリアム(モラトリアムは『執行猶予』の意味)が分かっていれば簡単」
(21)これらの中で、第二次世界大戦勃発までに、ドイツが一部領土を併合し、残る領土を
保護国化した国の名を記せ。
★ コメント
「併合は1938年ミュンヘン会議によるズデーテン地方。保護国化は39年3月にこのチェコス
ロヴァキアを解体し、西半分のベーメン(ボヘミア)・メーレンを併合、東半分のスロヴァキア
を保護国として優遇し、お互いを憎み合わせる分割支配を行う。これがベルリンの壁崩壊
後のチェコとスロヴァキアの『ビロード離婚』の歴史的背景なのだ」
☆ 解答例
A aデイオクレティアヌス bハインリヒ4世
(1)皇帝崇拝 (2)告自録 (3)エフェソス (4)アルクイン
(5)カンタベリ大司教の任免権をめぐる対立 (6)フィリップ4世
(7)コンスタンツ
B cリシュリュー dサンスーシ
(8) 贖宥状(免罪符) (9)エラスムス (10)救貧法 (11)バロック様式
(12)東インド会社を復興して貿易の拡大をはかる一方、王立マニュファクチュアの保護・
育成を行い、国内産業を発展させた。
(13)シュレジエン (14)プガチョフ
C eストルイピン fヴイルヘルム2世
(15)アレクサンドル2世 (16)(独露)再保障条約(二重保障条約)
(17)ペルシア(イラン)
(18)コルホーズやソフホーズの創設による農業の集団化と計画経済に基づく重工業化の
推進
(19)第一次世界大戦の敗戦国ドイツと社会主義国ソヴィエト政府が提携することで国際的
な孤立化を回避しようとしたため
(20)フーヴァー (21)チェコスロヴァキア
☆ 出題分野・テーマ
A キリスト教史(15世紀まで)
B 近代ヨーロッパ史(文化史・経済史中心)
C ロシア史(19・20世紀)
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